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『なぜ、いまアジア・太平洋戦争か』を読んで

山元研二

この本は岩波書店が2005年11月より刊行を始めた岩波講座『アジア・太平洋戦争』全8巻の中の第1巻にあたるもので目次と著者は次のようになっている。

T 問題の視座
戦争像の系譜    成田龍一(日本女子大教授)
帝国という経験   杉原 達(大阪大学教授)
戦争責任論の現在  吉田 裕(一橋大学教授)
総力戦・ファシズム・戦後改革  森武麿(一橋大学教授)

U 世界史の中のアジア・太平洋戦争
日本近代史における戦争と植民地  荒川章二(静岡大学教授)
20世紀アジアの戦争   倉沢愛子(慶應義塾大学教授)
世界戦争の中のアジア・太平洋戦争 油井大三郎(東京大学教授)

V 戦争の語りを考える
暴力を語ることは可能か  T・モーリスースズキ(オーストラリア大学教授)
戦争の語り直しとポスト冷戦のマスキュリニティ 米山リサ(カリフォルニア大学サンディエゴ校准教授)
歴史修正主義  岩崎稔(東京外国語大学助教授)S・リヒター(ライプチヒ大学教授)

雑誌『世界』の常連組が多いが、執筆者に共通するのは「新しい歴史教科書をつくる会」に代表される歴史修正主義への危機感であり、文章中にも繰り返しそれが述べられている。研究者として抑制的な語り口でありながら、「つくる会」の思想、運動のありかたと現在のこの国を覆っている状況への危惧は殊のほか強いと言ってよい。ひとつひとつの論文を評する力はないので印象に残った次の論文の感想を述べてみたい。

 倉沢愛子「20世紀アジアの戦争」
小泉首相の靖国神社参拝で日中、日韓の外交がこじれた時(今も続いているが)に日韓の仲介に入ろうとしたアメリカの政府高官は次のように述べた。「先の大戦を、日本は『帝国主義戦争』ととらえており、韓国は『侵略戦争』ととらえている。議論は平行線であった。」その新聞記事を目にした時私は思った。「そういうアメリカはきっと『ファシズム対民主主義の戦い』だったと主張するだろう」と・・・・

同じ戦争をどのようにとらえるか、定義づけするかの違いはそのまま「歴史観の相違」につながり、相互理解を困難にするものあろうが、歴教協に集う者たちにとってみれば「日本VS米英」という構図でみれば帝国主義戦争であろうし、「日本VS中韓」という構図でみれば侵略戦争であることは自明であり、「侵略された側」からみれば「帝国主義戦争であろうとなかろうと侵略の事実は何ら変わることはない」のであり、日本が中国・韓国に対してそのような主張をすることには何の意味もないように思える。倉沢氏も「20世紀アジアの戦争」について次のように述べている。

「基本的には帝国主義的戦争であり、その戦争の過程で日本はアジアにおける大帝国を築いた。この一連のプロセスを、帝国の側ではなく、支配されたアジアの側からみると、それは、領土を侵食され、支配され、そしてやがて民族解放の闘いによってそれを奪い返すという歴史であった。」

「つくる会」に限らず、戦後ずっと言われてきた言説のひとつに「あの戦争は欧米列強からアジアの諸民族を解放するための戦争であり、日本の占領・植民地支配が結果としてアジアの脱植民地化を促進した」というものである。「解放云々」については、大東亜共栄圏の思想がタテマエに過ぎなかったことは今さら付け加えるまでもないが、後半の「結果として・・・」の部分は具体例を持って語られることもあり、倉沢氏も「促進した面があったことは否定しない」と述べている。が、倉沢氏はアジアの脱植民地の主たる要因は次の2つであると述べている。

ひとつは「第二次世界大戦のはるか以前から、アジアの植民地においては民族独立への闘いがはじまっており、彼らはアジア・太平洋戦争の開戦によって窮地に立たされていた宗主国に対し、バーゲニングパワー(交渉するうえで有利な政略関係)を決定的に強めていった。」ということ。

そしてもうひとつは「第1次世界大戦後、民族自決は必須であり植民地支配は早晩解消すべきものであるという見解が認知され、少なくとも欧米諸国ではそのような世論形成に向かっていた。」ということである。

倉沢氏は、この2点をインドネシアの例をもとに「日本、アジア、旧宗主国」の三極関係から検証している。詳しくは、論文を読んでもらうしかないが「日本がアジアの解放に大きな役割を果たした」のではなく、「歴史的に形成、継続されてきた民族運動」と「世界の趨勢となりつつあった民族自決の風潮」が脱植民地化を促進したのであるということである。

私は昨年東京で劇団四季の戦争三部作のひとつ『南十字星』というミュージカルを見た。田原総一郎は「最高傑作」と褒め称えていたが、このミュージカルの全編を通じてのメッセージは「日本はアジアを解放しようとした」というものであった。主人公がBC級戦犯として処刑される悲劇を強調することによって逆に「本当にアジアの解放のために戦ったのに・・」という個人の思いが前面に出されていた。「戦後、現地で独立運動に参加した日本兵がいた」という事実の紹介がさらに「アジア解放」を引き立たせてもいた。私は、胸くそ悪くなり顰蹙ながら劇場を途中退席した。

戦中に限らず戦前には、中国の革命運動を支持したり脱植民地運動に共鳴する「個人」は存在した。しかし、「国家」が行ったあの戦争は決して「解放」ではなかった。「歴史修正主義者」たちは、そこをうまいぐあいにすりかえて「大東亜共栄圏の思想」を擁護しようとしている。だったら、朝鮮半島、台湾、樺太などの自国の植民地をなぜ解放しなかったのか。倉沢氏はそこにも言及している。

あと森武麿「総力戦・ファシズム・戦後改革」も印象に残った。最近の論考によく「戦前から戦中おこなわれた総力戦体制が結果的に日本の繁栄につながった」というものがある。平等化・同質化あるいは土地改革などであるが、森氏はそこに「戦後改革」を軽視しようという意図を感じ取っている。戦前と戦後の連続を強調することで「戦前・戦中の再評価」につなげているということである。森氏は「戦前と戦後を硬直的に断絶としてとらえる戦後歴史学の構築した歴史像を批判する」ことに同意しながらも「反発のあまり戦時と戦後の一面的な連続論に陥らないこと」が大切であると述べ、「戦後歴史学の成果をふまえて、その上で戦前から戦後への展開を一貫した論理で説明する歴史像の構築が必要である。」としめくくっている。

岩波講座を全巻揃えたことは何度もあるが、全巻読んだことは一度もない。各月発刊であるが、すでに第1巻に3ヶ月を費やしている。浅学非才の故であるが、このシリーズを「歴史修正主義に対する誠実な反論」と位置づけて行けるところまで格闘してみたいと考えている。ちなみに第2巻のタイトルは『戦争の政治学』で「総力戦」「天皇」「論争」がキーワードである(ように思えた)。

(『かごしま歴教協通信』 No.33 2006年2月)

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