メニュー



リンク


本の紹介・書評一覧に戻る

<書評>『差別とハンセン病〜「柊の垣根」は今も〜』畑谷史代 著(平凡社新書2006年1月)

評者 川野恭司

「大隅出身で高校も鹿屋だった。しかし、これまでハンセン病のことを学校で教えられることもなければ、話題に上ることもなかった。偶然か?意図があったのか?敬愛園もすぐ近くにあったのに、どういう場所か大学に入るまで知らなかったことが恥ずかしい。親や教師はなぜ教えてくれなかったんだろう」「…地域全体で差別というか、情報を消していたように思う」「自分が生きた同時代の歴史であったとは」

これは、この1月、大学の講義中にハンセン病を取り扱った際の学生の所感である。

私自身も、高校〜中学の教員として30数年間、2000年3月に退職するまでまともに教えたことはなかったのだ。親からの伝聞の「顔の崩れる恐ろしい病気」と、新聞などからの「伝染性はたいしてないらしい」というかすかな知識…。2001年5月11日熊本地裁判決以後、はじめて自分なりに恐るべき事実を知っていくことになる。

そして、本書の著者、畑谷史代(信濃毎日新聞社 37歳)の認識もまた、判決にそなえて前日、多磨全生園に地元長野県出身ハンセン病回復者を取材するまでは、にわか仕立ての知識を出るものではなかった。

序章は、取材した長野県人会々長、森田尚幸さんとの出会い(当時78歳)である。「およそ4時間に及ぶ取材で語られた彼の人生は、壮絶の一語に尽きた。ノートをとりながら涙ぐむ私とは対照的に、本人は淡々としていた。『隔離政策をどう思うか』と聞いた。『…でもあの時代、強制収容所がなければ、おれたちはどうなっていたかな…』…会長は、ハンセン病患者への差別が最も苛酷だった時代、苦しむ患者たちの治療に素手であたっていた看護師や医師たちを『サマリア人』になぞらえていた。『みんな遠巻きにして通り過ぎていった。…尊いのは手を出した人さ』。そして『裁判になってから園に足繁くやってくる』原告団を、簡単には信じられない様子だった。ぎくりとした。…今まで何の関心も払わず、判決前日になって療養所に押しかけて話を聞いている自分が、彼の『隣人』でないことはたしかだった」

彼女はこの日の記事を夕刊にまとめた。勝訴〜控訴断念という劇的な決着をマスコミは連日大きく取り上げたが、やがて日を追って記事は減っていく。彼女も又、気になりながら連日の多忙に押し流されて2年以上経ったある日、尚幸さん肺ガン再発のしらせが届く。。お見舞いにかけつけた彼女は、時間に限りがあることを実感し『なにをぼやぼやしていたのか』と自責の念に駆られる。

ここからの行動がすごい。まとまった時間を取るため、勉強(京都の大学院に合格)名目で休職を要求、ただし連載企画案を持って…。信濃毎日新聞社というのもまたたいしたところだ。彼女の熱意を受けとめ、「年間キャンペーン取材班」の一角に彼女の机を用意して、ハンセン病問題に追跡に専念させる。

こうして2004年春から、長野県出身回復者の暮らす青森〜香川の6カ所の取材が始まる。

証言は録音しただけでも74時間余、新聞連載は2004年9月から2005年3月まで55回、この連載ルポをまとめて加筆したのが本書である。

強制収容、偽名、病を治すどころか悪化させる患者労働(国立ならぬ「患者立」療養所と自嘲した)、断種を前提とした療養所内結婚、「12畳半の部屋に7人の女性…夜になるとそれぞれの夫がやってきて14人となる」夫婦生活、…まことに、人間の尊厳を踏みにじる実態の数々。それが戦前はもちろん戦後の新憲法のもとですら続いた(断種などはむしろ戦後に優生保護法の成立により合法化された!)ことが、一人一人の証言、聞き取りからうかびあがってくる。(第2・3章)

これらの事実は、私自身はすでにVTRや文献から、また、なにより実際に足をはこんだ三つの園での回復者のお話を聞いて知っていたことではある。しかし、本書の特徴は、登場する一人一人を何よりも郷里の人々とのつながり〜その痛ましい断絶〜かすかな回復への望みとあきらめの交錯する、その過程に踏み込んで追跡しているところにある。

そして、これこそはハンセン病問題がまさに現在の問題である証明となる。多くの人がいぜん、社会復帰できていない。郷里にも帰れないのだ。熊本地裁判決後の今も…。ルポの主人公ともいうべき田中尚幸さんの、親族に対する恐怖にみちた気配り。弟に気兼ねして匿名で裁判(原告)に加わった和宏さんの無念…。(第4章)

第5章「隣人として」はこの世と私たち自身のありようについて深い問題提示の終章である。愛楽園での交流会に際して逡巡しつつ行動する高校生。事実が短いセンテンスの積み重ねで述べられていくのだが、私は思わず涙した。…しかし、その後に怖い話がつづく。…匿名のバッシング。「自己陶酔のブスどもめが」「患者に理解を示してるふりしての売名行為だろう」等々。…高校生は悩む。「そっとしておくべきだったのか」…だが「なにもしないでいる方がいい」とは思えない。「どんな形であれ、ずっとずっと、つながり続けたい」

長野の小学校。回復者、伊波敏男さんとの交流会も印象的である。「子どもたちが一番学んだのは人と人とのつながりや伊波さんの生き方でした。井波さんが元患者であることは、やがて子どもたちにとって二番目か三番目のことになりました」「先生、そこが本筋だよ…」

なお、第6章には内田博文氏(「ハンセン病問題に関する検証会議」副座長・最終報告書起草委員長、九州大学大学院教授)へのインタビューがあり、提訴への経緯と現状の問題点が的確に述べられている。とくに終わり近くに善意が支える人権侵害、「かわいそうじゃなきゃだめ」…つまり苦しみをじっと耐え忍んでいる人(場合)には同情されるが、権利を主張する人(場合)は、はじかれ誹謗される…という世の風潮についての指摘はするどい。

資料編としての「ハンセン病問題−検証会議報告書はどう答えたか」は充実している。検証会議は熊本地裁判決翌年の2002年秋に発足。2003年〜2005年の2年半にわたる調査・検証結果を計1500ページに及ぶ報告書にまとめた。この要点を著者が57ページに絞り込んで要点をつかみとって提示している。現在、ハンセン病問題について共有すべき最重要かつ最新の知見をコンパクトに得ることが可能だ。

総じて著者の現在の立地点はどこにあるか、あとがきに短く率直に記されている。そしてこれこそ私の心に刻まれた言葉でもある。最後に引用して「書評」を終えることにしよう。

「今日に至るハンセン病の偏見と差別を生み出した根本には、国の絶対隔離政策がある。『うつらない病気なのに社会から排除した』のは明らかな間違いだった。では、仮に『うつる病気』ならどうなのか。『排除はやむを得ない』としてしまうのか。それとも、『排除してはいけない』と踏みとどまるのか、あなたは、私はどちらの側に立つのだろう…。

恐怖心や差別してしまう心は打ち消しても湧いてくる。この先、幾多のそうした場面で踏みとどまれるかどうか……。私に自信はない。だから、泣きながら、くじけながらでも、その手掛かりを人と人とのかかわりの中に、あるいは『もし自分ならどうか』という問い返しの日常の中に、探していくしかなさそうだ」

(『かごしま歴教協通信』 No.33 2006年2月)

inserted by FC2 system