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歴教協フィールドワーク報告(2007年1月6日)

南 哲夫

昨年、積雪のため中止になった「南薩方面の戦争遺跡を巡る」フィールドワークは、今年もあいにくの悪天候でしたが7名の参加者で実施しました。

ガイドは教職退職後も平和教育に携わりながら、戦争遺跡のガイドをされている南薩平和サークルの岡崎さんと隈元さんのお二人でした。

集合場所の金峰歴史交流館を30分ほど見学。

2005年にオープンしただけあって、最新の映像技術を使った展示でした。
展示内容は、原始古代から近世にかけてのものが主でしたが私にとって興味を引いたのは、古代から中世にかけての交易圏を伺わせる中国産の陶磁器などの出土品でした。

万之瀬川下流域の出土域などが具体的に示され交易船の出入りがあったことを示すものでした。展示物の中に徳之島伊仙の「カムィヤキ窯」産のものを確認できたらと期待しながらも南九州から南方地域にかけての交易圏にもあらためて興味がわきました。

もう一つは、寛政4年(1792)に描かれたという「田布施郷絵図」。今に残る地名や寺社名がくわしく記載されていて貴重なものです。
長い年月の移り変わりを経て、そこに住み続けてきた人々の暮らしが今につながっていることを想像するだけでも楽しいものでした。(交流館は毎週月曜日が休館日とのこと)

万世特攻平和祈念館へ移動。

飛行兵の練習機「赤とんぼ」をイメージしてつくられたといいます。祈念館への道すがら知覧の祈念館と同様に灯籠が安置されていました。もちろん戦死者の霊を慰めるためのものでしょうが「英霊」として祀られる戦死者たちが戦った戦争は美化されることになり、何故か不戦と平和への強い願いが感じられない、そんなことを考えながらの入館でした。

祈念館1階スペースの大部分を占めていたのは、実物の「零式水上偵察機」。2階展示室の大部分は、特攻で犠牲になった隊員たち全員の顔写真・年齢・出身県・所属部隊名・出撃日や遺書をはじめとする遺品でした。

もはや日本の敗戦は必至であるにも関わらず、本土決戦に備えて、「一億総玉砕」「総特攻」の考えのもとに万世基地からもわずか4ヶ月足らずの期間に50数回の出撃で201名の尊い命を犠牲にしています。

写真の中に韓国人・朝鮮人が日本人名で掲げられているのも改めて衝撃でした。この館を訪れるどれだけの人が過去の日本による植民地支配の事実を受け止め考えるのでしょうか。

岡崎さんがつくられた詳しい資料を見ながらいろいろなことを考えさせられました。

また、どの遺書にも出撃にあたっての両親や家族に宛てた遺書や手紙には「御国のために喜んで散華」していく内容がほとんどです。
本心を書くことは許されなかったのではないでしょうか。

鹿屋の海上自衛隊航空基地資料館には出撃を前にして全員の隊員たちが書かされたと思われる「課題答申」が俳優の西村晃さんのをはじめ数多く展示されています。内容に共通するものを感じることでした。

出撃前日の子犬を抱いた特攻隊員たちの「笑顔」で写っている写真にも複雑な気持ちになりました。

他の多くの「祈念館」に言えることですが、侵略戦争の事実、加害責任、さらには厭戦・抵抗の視点までも位置づけた内容が展示されない限り、「英霊」たちの死は浮かばれないのではと思います。

沖縄戦では少しでも長く米軍を釘付けにするため県民に多くの犠牲を払わせ、南九州では「本土決戦」と称して国民には一歩も後退することを許さない戦略を採りながら、天皇を始め大本営だけは長野県松代に移転するため地下壕作りに取りかかっていたのです。国民の命よりも護るべきものは「国体」そのものでした。

残念ながら敗戦後多くの施設は取り壊され当時の基地の様子を示すものはほとんどなく、祈念館を出た所に移動した「営門」だけが県道沿いに建っているだけでした。

昼食をとりながら両人から資料の説明を受けた後、坊津へ移動。

ここには水上特攻「震洋」の基地があったといいます。
歴史資料館前の番所丘に登り「震洋隊記念碑」、その先には当時通信隊員として配属された作家梅崎春生の文学碑「幻化」がありました。
彼の小説「桜島」には坊津基地に駐屯していた隊員たちの様子がくわしく描かれているということです。

また、車岳にはレーダー監視哨があり砲台跡や待避壕などの戦跡が今も残っているとのことです。「震洋」の出撃地であった泊の荒崎海岸に移動、海岸の光景も一変し、波風の立つ海岸で当時の様子を想像することだけしかできませんでした。

最後に歴史資料館に移動。
ロビーで隈元さんより久志海岸沖で魚雷爆撃を受け沈没した輸送船マレー丸や久志の空襲についての話を伺いフィールドワークを終わりました。

戦後62年が経過し悲惨な戦争体験が確実に風化していく中で、教育基本法が改悪され、防衛省が発足するなど、平和憲法をも葬り去って新たな「戦時状況」がつくられようとしています。それだけに戦争体験や戦争遺跡を掘り起こし語り継いでいく作業に終わりはなく、これからもつづけていくことが求められているのではと考えることでした。現地で日々平和をつくるために取り組まれている岡崎さん、隈元さんに改めて感謝することでした。


*旧万世陸軍飛行場について。

当時県内15カ所の軍飛行場のうち陸軍飛行場は、知覧・万世・青戸の3カ所で万世 飛行場は福岡の大刀洗陸軍飛行学校の分校として計画されたが、戦況の悪化にともない沖縄前進基地の飛行場として使われた。『加世田市史』によると、飛行場建設のため1943年1月83世帯が強制移住され、44年3月には田布施村立新川小学校が廃校となった。また工事は「鉄道工業株式会社及び藤原組」が中心となって行われたと記録されているが労働の実態や待遇などについての詳細な記録はない。

(宮崎の福田さんからいただいた『中国人強制連行の記録』の写しによると、加世田万世飛行場の工事には鉄道工業の会社名で343人の数字が見えるが、平和祈念館で配られている案内パンフには「中国人の捕虜約100人が就労した」とあり数字の開きが大きすぎる。また、強制連行に関して先の写しでは「(中国大陸での)人狩り作戦中に少なくとも2、823人が死亡などで減じ、残った38、989人を乗船させたが、ひきつづいて船中で584人が、日本上陸後の事業所到着までに238人がそれぞれ死亡している」と述べ、全国135の事業所に連行されている。)

*宮崎県北部の日之影町にあった三菱槇峰鉱業所では250人の中国人が連行され、45年2月に鉱山に到着、12月に下山するまでに77人が死亡している。死亡率30.8%。当時勤労動員された日本人の上限年齢は50歳に対して最高齢68歳最若年14歳で50歳以上の年長者が74名もいた。4次にわたる訪中調査のなかで生存者により、2004年提訴(中国人強制連行強制労働宮崎訴訟)、11回の弁論を終えて今年3月判決が予定されている。同趣旨の裁判は北海道を始め6都府県でおこされている。万世に限らず鹿児島県内での強制連行による強制労働の事実はまだまだ掘り起こしていけるのではないでしょうか。

(『かごしま歴教協通信』No.35 2007年1月)

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