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〈問題提起〉学校とは?今の学校の問題点と改革の方向

大平政徳(鹿児島南高校)

はじめに

夜間中学を取材した映画「こんばんは」を見ました。
高齢者・在日外国人・不登校の若者など「正規の学校教育」から「排除」された人々が、自らの学習権をとり戻すように学んでいる姿に胸を打たれました。

そこには<学習してわかる>ことで一歩一歩自分自身を再構築していく筋道が描かれています。
それはまた、山田洋二監督の「学校」シリーズに描かれた世界でもあります。
識字教育の中で「文字」を知ることで自然や世界が違って見えるということが言われます。
学習することが自分を取り巻く自然や世界を深く広げ、逆にそれが自分自身の内面を豊かにし、自分を成長させていくこと、そこにこそ教育の原点が示されています。

映画「こんばんは」を見ながら、さらに強く感じたことは「ここには能力主義(競争主義・序列主義)がない」ということでした。
共通の教材を使用しながら、授業は一人ひとりの生活や学力の現実から出発し、学習者が自らに即して分かるようになること、自分なりの考え方がもて、それが表現できるようになることをめざして進められます。

生徒が高齢者の場合、年齢的にも経験的にも教える教師より数多くの「生活・体験」をしています。
「知識」のある教師が「知識」のない生徒に、一方的に「知識」を伝達する通例の学校と違うのです。
ここでは<学ぶこと>は自分のこれまでの生活・体験を再構成・再解釈することになるのです。
それは個人的な生活・体験を普遍的な世界に位置づけるということです。

そこには点数を付けて生徒を序列化する能力主義の必要性は全くなく、教育の本質そのものが存在しています。

能力主義

憲法第26条で「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」、教育基本法第3条で「ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会」が保障されています。

これは簡単に教育権を保障した条文と言われますが、この「ひとしく」と「能力に応じて」をどう読むのかということは実は大きな問題をはらんでいます。

歴史的に見てみますと最初に出てくるのはフランス革命のときです。

『フランス人権宣言(人間および市民の権利宣言)』(1789年)では「第6条・・すべての市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる。」と書かれています。

これが日本国憲法26条に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と継承されているのです。

これらの条文をどう読むか?
<「能力」以外の血統・身分などの差別は認めない>ということは、<能力>の差は認めるということにもなります。
近代市民社会はその出発から<能力主義>を内包しているといえるのです。

教育基本法の改悪案が国会に提出され、秋の臨時国会はまさに正念場です。
第3条に関わって言えば、障害児教育のこれまでの進展や特別支援教育が始まることを受けて、<障害のあるものに対する教育上の支援>が項目として追加されたことを除けば、本文に大きな変更はありません。
条文からは教育政策の変化は読み取れません。

しかし、文部科科学省の最近の新自由主義的教育改革が一層の差別選別教育を進展させることは確実です。
「教育振興基本計画」にその方針を盛り込み具体化するシステムが整うことになるからです。
その最初は全国学力テストの実施でしょう。

国際競争に勝つ人材をエリート教育で実現することは三浦朱門のことばを待つまでもなく、財界の至上命令です。「飛び級」「習熟度別学習」やスーパーサイエンススクール、スーパーイングリッシュスクール、鹿児島県のさつま川内市に見られる教育特区での小学校英語教育、玉龍中学校の中高一貫校への受験者の殺到などなど。「学校選択の自由化」を皮切りに「学校・教育のサービス・商品化」の過程は急速に進行しています。

それらが「学校評価」「教職員評価」と連動し、これまで以上に能力主義に絡めとられていくことが予想されます。
それは公教育の責任を放棄し、教育や福祉も市場化の波に洗い流されることになります。

新自由主義的な教育改革が、今後一層深く広く「能力主義」を蔓延させるなかで、「能力主義」をどう乗り越えるかは近代市民社会の変革を伴う、きわめてラディカルな課題なのです。

学校の役割

学校とは何か?と問われたとき、やはり「学校とは学ぶ場」だと答えたい。

子どもたち一人ひとりは、学びたいと思って学校に来るのです。
一部の大学進学校を除いて、流行を追いかけ友達とのおしゃべりのために学校に行く多くの高校生たちは、勉強を放棄したように見えますが、その本音のところでは分かるようになりたいという思いを強く持っています。
小学校・中学校・高校と、急がされ・比較される競争主義・序列主義のなかで、わかる喜びを傷つけられてきたのです。
学校はその子どもたちの願いに応える責務があるのです。

学校で子どもたちに何を学ばせるかというのは、学校ごとに作られる教育課程で決められています。
さらに教育課程は学習指導要領に則って作られるわけです。

学習指導要領はその時々の時代の要請、多くは経済界からの人材要求を基本に作られます。
現在は国際競争に勝つエリートをどうつくるかというのが第1の課題になるのです。
当然それは、まず大学での能力が前提になります。
そして、大学入試を通して高校教育内容を決めるのです。それが中学校・小学校と降りてくるのです。

何を教えるのかという教育内容がこどもの現実から出発せずに、大学卒業という出口から、上から決められるのです。
当然その流れに乗れない子どもたちはいわゆる「落ちこぼれ」になっていくのです。
いや、文部科学省はその「落ちこぼれ」を早く見つけ出し、「本当」に必要な一部のエリートを見つけるために、子どもたちを「篩い」にかけるといったほうが正確だと思います。
戦後の教育史を見ればそれははっきりしています。
多くの国民は、まさか文部科学省がそこまではしないだろうと思っていますが、そうではないのです。

では、どうすればいいのか?
答えははっきりしています。
子どもたちの現実から出発して教育課程を組むことです。
全国的な学習指導要領はおおよそのめどを示すもの、戦後出発時の「試案」に変え、教師の参考資料にすべきです。

何を教えるのか?どのような子ども像を描くのか?
このとき、これまで教師だけで作ってきた教育課程を地域・父母そして子どもたちの意見を聞いて作ることです。
それは学校評議会であったり本来的な意味の教育委員会であったりするでしょうが、学校を今以上に地域に開いていくことが求められています。

文部科学省が現在進めている「学校評議員制度」「学校評価制度」を、外からでなく内から、学校自らが作り出すことが必要でしょう。
子どもたちの現実を分析し、どのような教育課程を準備するかを学校が自主的に決めることができれば、子どもたちの学びたいという願いに応える学校が誕生していくでしょう。

今年の4月から「新しい教職員評価制度」が鹿児島でも実施されました。
自己申告を書くとき、<校長の学校経営方針>を踏まえてと言われます。
この<校長の学校経営方針>を校長個人のものとせず、今までのように学年会・部会・教科会など学校全体で話し合ってつくることが求められています。
今までのようにと書きましたが、それが形式的で実質化してなかったところは、これを契機に本来的な教育活動の原点に立ちかえることが必要です。
九州各県は権力的に制度が導入される場合、なかなかその制度の導入を阻止できない現状があります。
一つひとつの制度の導入に悲観せず、総体としての教育政策の意図を見抜き、現場で教育の原点に戻った取り組みをすすめることが求められています。
したたかにしなやかに教育の現場では取り組む必要があります。

授業改革

次の文章は鹿児島高教組が編集した現行学習指導要領批判のパンフレット『TRY21』に主として筆者が書いた<社会科教育をどうするか>に関する文章です。


「高校生たちは21世紀を生きるのです。その未来の視点から,21世紀を生きるにふさわしい主権者としての学力が大切です。

1、暗記社会科からの脱却を

社会科は暗記物といわれ嫌いな教科の代表です。
今回の指導要領改訂は文科省なりの対応ですが,知識を軽視した抽象的な「学び方」の重視,形式的な討論・ディベイト,インターネットによる情報検索などの作業や体験だけでは社会科としての学力は形成されないのです。

社会科の授業は何よりも目の前の事実を丁寧に教えることです。
地域の現実(ゴミ・リサイクル・高校統廃合など)から世界の現実(戦争・核・飢餓・環境破壊など)まで生徒たちの興味をひくことはたくさんあります。
「現代社会」「地理」「政経」など大胆にそれらの現実を生徒に提示し,生徒と共に考えることです。
「暗記」から「考える社会科」へ,生徒たちに地域や世界の現実が見えるようにしてやることです。

2、社会科学的認識を

南北問題に象徴されるような現代世界の諸問題を社会科学的な視点から教材を組み直しましょう。
また歴史教育においては、歴史の転換点を教材に取りいれ,どのような選択が可能であったのか生徒と共に考えましょう。
また現代史(特に明治以降の日本の歴史)をしっかりと教えることが大切です。

3、生徒とかみ合った授業を

生徒の興味関心に合った教材を準備しましょう。
知識を教えると言うことは,知識を詰め込むことではありません。
生徒が主体的に知識を学び取るそんな授業方法を工夫しましょう。

4、意見形成と学び合い学習

主権者としての学力は,自分の意見を形成することです。
授業の中に,自分の意見を形成する場面をどこかに入れましょう。
民主主義を授業方法の中に組み込んでこそ社会科です。
生徒が主人公になる授業を構想しましょう。」


学校の役割のところでも書きましたが、学校はやはり「学ぶ場」です。
その学びを保障する授業の改革をどうしてもすすめなければなりません。
そのとき、上記の文章の中で <3、生徒とかみ合った授業 4、意見形成と学び合い学習>の項目がきわめて大事だろうと思います。

「分数がわからない大学生」で始まった「低学力問題」、PISAのテストとフィンランドの教育、「習熟度別学級」など学力をめぐる論議が盛んです。
私たちは民間教育研究団体の大きな財産をもっています。
改めてその財産を整理し現代的視点から活用することが求められています。
70年代中葉に現場の教師や研究者たちの総力を結集した日教組の「教育課程改革試案」を手がかりに、21世紀を生きる子どもたちのための新しい教育課程試案をつくることが課題として浮かび上がっています。

(『かごしま歴教協通信』 No.34 2006年9月)

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