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大会報告 > 第49回県大会

2007年度 鹿児島県歴史教育者協議会第49回大会報告

神崎英一(鹿屋中学校)

T 講演「今,授業の何を変えるのか」 加藤好一先生(静岡県熱海市多賀中学校)

加藤先生の講演は,はじめ中学校公民の最初の単元「高度経済成長一大量生産,大量消費,耐久消費財の普及」のところ=どの先生もやりにくく,どう授業するか頭を抱えるところに焦点を当て,加藤先生がつくった授業の紹介から始まった。

まず配られたのは,多くの大人たちが何かに見入っているA3サイズの写真のコピーだった。(2人で一枚。授業でも生徒2人で一枚のようだ。)「これは何をしているところだろう?」一様に見入る。何なのか,皆考える。「何かを全員で見ている」「何をみているのか」

私は程なく,テレビだ。「街頭テレビ」(街頭に置かれたテレビ)だと分かった。しかし,参加者からは発言が出ない。そこで加藤先生の子どもたちとのやりとりの紹介がなされた。

「大卒の初任給が7000円の頃,17インチテレビで18万円の時代(1953年)」

街頭に置かれたテレビに仕事帰りの(ほとんど)男たちが見いっている。それはプロレスの力道山の試合だ。(写真パネルが提示される)なるほど。テレビの普及の最初の原点を写真から考えさせる構成。そして,テレビの良い面を出してもらう。(同時性=速報性,即時性,映像による理解の容易さなど)

資料探しに関して,先生は資料を見つけたときどんなに喜びが増したことか!見つからないときもあるという。確かここに保管してたと思ったが・・・ないときは代替物を使用するしかない。参加された先生方にも同じような経験があるだろうから,探していて見つからないときの悔しさはいつまでもこころに残る。

テレビの契約数は,1953年886件の契約に対し,10年後の1963年には1000万件を超える。

つぎに「磯野家の生活年表」をみる。(「サザエさん」の磯野家)この年表には何年にラジオが磯野家に入り,何年に電気スタンドが,テレビが,冷蔵庫が電気コクツが入ったのかが分かるようになっている。(子どもたちにはこの表から分かることを出し合ってもらう。)同じ資料プリントに「耐久消費材の普及率が50%を超えた年」が分かる資料が添付されている。白黒テレビは1961年,洗濯機も1961年,冷裁庫は1965年,掃除機は1968年,カラーテレビは1972年などなど。

ここからは大量生産の意味,大量生産が個々の商品の値段を下げていく。耐久消費材が各家庭に普及する。教科書の記述や普及のグラフなど合敦する。理解がすすむ。

板書では,1973年までが高度経済成長と記される。なぜ1973年でストップするのか?を問うて,石油危機のことまで言及する。
「サザエさんの生活のウラ,電化製品の広がりのウラには何があるのだろうか?」→共働き−高収入一大量消費(大量廃棄)社会の出現について説明する。

そして最後。「働く目的」の資料。これは働く目的が年代ごとに変化することが分かる資料になっている。

質問項目(1997年→1999年→2001年)
「生きがいを見つけるため」33.1% → 35.3% → 24.4%
「お金のため」34.0% → 33.7% → 49.5%
「社会の一員としてのつとめ」16.9% → 16.9% → 10.0%
「自分の能力の発揮」12.7% → 10.9% → 9.0%

この表により時代とともに人びとの意識も変化することがわかる。

子どもたちには,「ではこういった大量消費社会の中で,人々の意識はどう変わっていくのだろうか?」「君たちは社会に出て,何のために働くのか?」「お金のためだという人?」「生きがいのためだという人?」

クラスでは6割を超える生徒たちが,「お金のため」に手を上げている。

加藤先生は,こう結ぶ。

「う〜ん,君たちは自由に手をあげてもらったよね。でも資料をたどると,この考え自体が今の大量消費社会のなかで次第に多数になってきたものだとわかります。人は社会の中で生きて自分でも気づかぬうちに,このように社会の影響を受けるのです。」「ということは社会や国の仕組みを知ることは逆に社会にはたらきかけ,主人公として自由に生きていける。それが公民という教科を学ぶ意味です。この1年間頑張りましょう。」

大変印象深い公民入門となっていた。

そのほか,「産業革命期における地底で働く子ども」の授業や「ダビデ像からルネサンスを考える授業」,「食と農を考える−食糧自給率と私たちの生活」「アメリカ南北戦争」の授業について紹介があったが,ここでは割愛する。しかし,どの授業にも光るものがかならず1つはあり,教材研究のしかたや構成(組み立て)の仕方など大変参考になるものだった。

●(質疑応答の中で分かったこと)
いつも気にかけて資料をストックしていること。袋に入れてストック。生徒資料も。
ワークシートにはこだわらない方が良いこと。
教科書との関係では,使用できる面は使用する方向で構成を考える。等

以上,大変有意義な講演会だった。先生は講演のあとつぎの講演地へ向かわれた。教科書から集団自決のことが削除されることが話唐になった沖縄県へ。先生はこの夏も引つ張りだこのようである。

U 研究・レポート報告

(1)「水俣病の授業」−公害から環境の再認識へ− 自尾裕志・菱刈町立湯之尾小学校

1956年,「水俣病」が公式発見となってから50年。湯之尾小学校の5年生を対象に「水俣病の授業」が2月から3月までの2ケ月間行われた。公開の研究授業にもなり,うちの学校の教頭が霧島教委から転勤してこられ,私が水俣市出身ということを知って「菱刈の方で水俣病の研究公開をされた人がいるとよ。」とおっしゃっていたが,白尾先生のことだったのかと後で分かった。

私は大学時代,「水俣出身だったら水俣病を勉強しなくては」と教授に誘われ教養部の教育学で現地調査まで含め,改めて水俣病の全貌を学習した時があった。

小中高の時代には「水俣病の人たちのことを差別してはいけない!」と差別禁止教育として学んだ印象が深い。
どのようにして発生し,なぜ有機水銀を海に流したのか,水俣病になったらどうなるのか?病気になった人の健康はどうなるのか,救済されるのかといった疑問は,この大学での勉強がなかったら,分からないことであった。恥ずかしいかぎりである。

白尾先生も紹介されていた故田中裕一氏は中学の教諭を退職してから熊本大学に着任され,私たちの恩師である。
日本で最初に水俣病を授業にし,話題になった人である。(しかし,実際には非難中傷で風当たりが強かった中,それを乗り越える実践をされた人である。それだけ水俣市や熊本県がチッソ城下町であったかということが言えると思う。)大学時代に分かったことは,水俣病からこの日本社会が見えてくるということ,資本主義社会の矛盾に気づかされたということである。

そしていま,白尾先生の実践された授業は,事実を追って探究し,科学的に(差別はダメよというものではなく=当然差別はダメなのだが)水俣病の仕組みを見ていこうという授業であり,まさに現在待たれているものである。

おりしも公式発見から半世紀,水俣病は終わっていない問題で,鹿児島の出水地区の人たちも苦闘されている鹿児島県の問題でもあり,絶好の教材であると思われる。(県も『公害の原点 水俣病について学ぶ』という資料を発行している。鹿児島県環境生活部環境政策課編。白尾先生も紹介しておられる。)

白尾先生が出されたレポートの量も膨大だが,それだけに水俣病の歴史の資料が膨大なのだと思われる。

加害企業チッソは,1908年にできている。
はじめは出水につくるはずだった。ところが時の水俣村長らが熱心に水俣誘致をされ,水俣の地に完成する。
この病名も「出水病」になっていたかもしれない。
そして,鉄道が開通する。水俣駅はチッソの正門の真っ正面に完成する。物資・原材料の運搬が容易になる。
いかにチッソの力が絶大なものであったかをうかがい知れる。

駅が完成していてあとにチッソの正門ができたなら自然に理解できるが,チッソが先にでき,あとから駅ができたのである。
今でも水俣駅を降りるとその正面にチッソが見える。
自尾先生のすごいところは,1時間で着くということであったが,実際にチッソ・水俣まで現地調査に行かれていることである。

授業の実際は,年表で1908年から2004年の最高裁判決(国,県に行政責任を認定)まで学習をしたあと,これまでの水俣病の認定者数を,熊本県1775名,鹿児島県490名と現在の生存者数688名(鹿児島県186名)をおさえた上で,つぎのような流れになる。

1 水俣病とは何か?症状を知る
2 チッソ工場はなぜ人々のことを考えずに水銀を流したのか?予想と疑問
3 チッソ水俣工場の「猫400号試験」と見舞金契約
4 国や県も補償金を払わないといけないか?
5 チッソや県はどんな考えが足りなかったのか?(公開授業)
6 学習のまとめ(水俣病とチッソの関係を認められるまでなぜ12年もかかったのか)

自尾先生は,毎回授業の感想を子どもたちに書かせ,それを次時で紹介している。授業の中では子どもたちの疑問や予想を大事にしておられた。考えさせる授業となっている。

教育再生会議が打ち出した方針の中に「論理的に考える思考力を育てる」というのが目玉になった。自尾先生の授業は先取りしているものである。

友達の意見も借りて,自分に意見を深める。そして書くことで自分の考えを再確認する。
小学校高学年で考える内容は今後も生きてくるものである。
自分の考えを事実を通して考え,思考力を養うという点で非常に有効な実践であると思われる。

膨大な資料の中からどれを資料として,どう組み立てていくか,大変苦慮されたと思いますし,大変苦労されたと思います。

この授業を通して子どもたちの感想にもあったように,社会全体で環境のことや人命のことを考えて生産活動をし,許認可しなくてはいけないことを学んだことと思います。先生貴重な提案ありがとうございました。

(2)「鹿児島における近代史授業プラン」 山元研二・鹿児島市立東谷山中学校

山元先生の「近代史授業プラン」作成の動機は,ある研究会での講演者の発言にあった。

「中学校の先生は,郷土の歴史を教えていないのではないか」「鹿児島の歴史は幕末・明治維新でおわりでないか」という発言である。
そこで山元先生は,「なぜそとからはそうしか見られないのか」「体系的に授業をやっていないからではないか」ということから,山元先生の授業プランの作成が始まった。このプランも膨大なものである。

3人に(大平先生も含めて)共通するのは,3人とも研究者であるということである。実践をまとめ,つぎの授業をよりよいものに作り上げていく。実践家であり,研究者である。私も実践を積み上げ,書いていかなくてはならないと思う。

近代を「幕末から敗戦まで」とし,開国と不平等条約から攻作戦と本土決戦,米軍の上陸作戦まで26項目をプランとして組みいれている。
その一つ一つが,A,Bに分類されている。
Aは,授業でメインに扱うメイン教材,Bは,授業のなかで補足として扱う教材として分類している。

授業の実際としては,「鹿児島における米騒動」を,そのねらいを「鹿児島で米騒動がおこらなかった理由について考えることができる」として紹介している。

授業の流れは
<米騒動ってどんな事件だったかな>
<鹿児島でも米騒動は起こったと思うか?>
<なぜ鹿児島は米の値段が上がらなかったのでしょうか?>
<県内の各地の事情を資料を通してみる>
としてまとめています。

随所に,選択肢があり,
「鹿児島で米騒動がおこらなかった原因はつぎのうちどれか?」
→@「米の値段は上がったが,警察や軍隊をおそれて騒動にならなかった。」
 A「米の値段は上がったが,新聞などが全く報じなかったので県民は動かなかった。」
 B「米の値段はほとんど上がらなかった。」(正解はB番)
裏付けとなる「米の値段の比較表」が示され,史実が証明されていく。

ではつぎに「鹿児島の米の値段はなぜ上がらなかったのだろうか?」と聞いていく。

@「鹿児島はあまり米を食べないので値段が変わらなかった。」
A「豊作に加え,他県からたくさんの米を入れたので値段が変わらなかった。」
B「米騒動をおそれた米屋たちが値段をつり上げなかった。」(正解は,B番)
裏付けとなる久米田新太郎の発言資料が示され,3番が史実であったことが分かっていく。

各地の紹介では,阿久根では他より8銭も安かったことや甑島では米がない苦しい状態で配給券が配布されても買う余裕がなかったとある。奄美では唯一騒動といえる事件が発生し逮描者が出ていることを子どもたちはつかんでいく。

「特攻作戦と本土決戦」の授業では,
<特攻隊って知っていますか?>
<実は特攻隊にもいろいろな種類があるんです。(震洋,回天,蚊龍,海龍,航空)>
<なぜ鹿児島には特攻基地が数多く配備されていたのか?>
<沖縄のつぎに上陸するのはどこか?>
<上陸しやすい場所はどこか?>
<このころの国民はどんな気持ちでいたと思うか?>
<軍の発表した「民心の動向」を読んで当時の国民の気持ちを考えてみましょう。>
という授業の流れである。

特攻基地配置地図,軍の想定した命中率(航空が1/6,海龍,回天が1/3,蚊龍が2/3,震洋が1/10の奏効率)などを資料として示し,充実した学習内容となっている。そのほか,特攻機が墜落・戦死した場所の一覧,「本土決戦」の想定計画表が地図と共に考えられるような授業の組み立てである。

私の住む鹿屋市地域にも戦争遺跡が多く存在する。
古場昌彦先生の紹介であるが,日本で最初の米軍上陸地が鹿屋市高須にある。
山元先生の紹介では,終戦間近に計画された海軍作戦基地の建設計画のあった高須である。
震洋の格納庫跡も垂水にある。(大隅青少年自然の家所有の海岸コースのすぐ近く)

平和教育の面からも戦中の時代認識を深める上でもこうした授業の交流がなされることは,より鮮明な戦争計画像が浮かび上がるように思われる。

山元先生のこの近代史授業プランは今後さらに充実化し,全国的にも注目される実践になるものと思われます。

(3)「法教育となにか?」 大平政徳・鹿児島南高等学校

大平先生の授業実践は裁判員制度の導入を前に「法教育」の必要性がさけばれる中の実践である。

テレビでも「行列のできる法律相談」が人気番組となったり,実際に2009年からは,だれもが(国会議員や裁判官など司法関係者,自衛官など抽出されない。
そうした制限があるが)抽出され裁判員となるかもしれない時代にあり,法教育の必要性は,高まってくる。

そういう点でとても有意義な実践,今後も需要が高まる実践である。

中学校でも裁判所についての学習の中で,刑事事件とはなにか,民事事件とは何か。ということをしっかりおさえさせる必要があるし,裁判員制度の導入とともに法律に強くなる,法律は難しいものではないんだということを若い世代につかんでもらうことは非常に大切である。

大平先生の授業実践紹介の中では,法教育の必要性,法教育の意義,法の基本的な考え方,法教育の内容等がしっかりと理論的におさえてある。

「法教育は専門的な知識を教えたり,法律の専門家を育成することではない。民主的主権者として対話能力や社会の問題をみんなで話し合って解決していける力を育成することである。」とし,「自ら情報を集め,その情報を判断し,お互いの話し合いで解決していける紛争解決のスキルを育成すること」

→そのために,授業では「生徒自身が自らの考えを,相手に理解できるように話し,相手の話を聴いて反論するなど議論や対話ができる能力=コミュニケーション能力の育成がめざされるべき」である。

→そのために模擬裁判(シミュレーションを通して,情報分析能力や自分の意見を持っ能力,意見を発表する能力,根拠を持って立証できる能力,他人の意見を聴く能力,反論する能力,反論に答える能力,まとめる能力を培っていく必要があるのではないかと提起された。

具体的には参加者でつぎの演習について話しあった。

演習課題
A(40歳男性,会社員,妻,子ども2人),B(10歳女性,小学生,Aの子ども),C(67歳女性,資産家,夫と死別,子どもなし),D(19義男性,大学生,独身)が,離島の森林を歩いているとき,あやまって毒蛇の生息地に足を踏み入れ4人ともかまれた。45分以内に血清を注射しなければ死亡します。 4人はすぐ島の診療所に駆け込みましたが,血清は1人分しかありません。島から−番近い総合病院までは3時間は必要です。残された時間は30分。あなたは医師です。さあどうしますか?

いろいろな意見が出される。

人命を救助するためにわたしたちはどうするか,話し合い解決していかなければなりませんでしたが,今回は参加者で話し合えませんでした。(時間の関係?)
ここで話し合え,一つの結論が導き出されると良かったかもしれないという感じはしましたが,高校生がこの話し合いに参加し,自分たちの結論を導き出す。
そして大人になるにあたってどういったことが必要なのかを考えさせていくことがよりよい法教育になるのではないかということが分かった。

最後にこうまとめが記されていた「法教育の難しさは 自明の答えがないこと。法の難しさは,現実の問題に向かい合い,その限界の中で考え悩み,結論を導き出すこと。そして,その結果を引き受ける能力が必要である。そうする力をつけていくことが社会の構成員として大人になることである。」と。

この演習問題でも自分の考え通りには結論が得られないかもしれない。
しかしみんなで考えあった末に出された結論を受け入れていく。
そうして社会の教訓を導き出していく。このことが大人になっていくことなのだということを一緒に学ぶことができたように思う。
この斬新な「法教育について」を2007年の夏に学べたことがとても有意義であった。

V 2007年鹿児島県歴史教育者協議会県大会に参加して(感想)

加藤好一氏の講演から始まり,小中高の先生方によるレポートに学び,この報告をまとめることを通じて私自身がよく振り返り,学習内容を深めることができたように思う。

教師になって7年目。子どももある程度大きくなり,研究会にも参加ができるようになつたことが大きいが,こうした研究協議会に参加し,実践を持ち寄り,自分自身も力量を高めなければ,これから荒波のたつ教育界では取り残されてしまう。

どの報告者(講演者)も自らの実践に真摯に向かい,実践的力量を高めるために研鑽しておられる実践家であって,研究者であった。

この夏,参加者の意見や感想,指摘に学ぶこと自体が大きな刺激を受けるものであった。多くの人に感謝します。

( 『かごしま歴教協通信』 No.36 2007年9月)

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