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九民研熊本集会参加記

山元研二(東谷山中)

はじめに

「ゆっくり本を読む」これが私の30代までの冬季休業中の過ごし方であった。
が、ここ数年は九州各地の九民研集会に参加することが多くなった。
理由は一も二もなく「妻の意思」によるものである。
以前、指宿であった九民研での学習がよほど刺激的であったらしい。
私にとってもその集会は「はじめて報告した」機会であり、かねて愛読していた堀尾輝久の講演を聴いたという意味で忘れられないものではあった。

今年は、熊本で山鹿温泉での開催。
妻は分科会世話人ということで早くから各県の人達と連絡を取り合っており、報告書づくりにも余念がなかった。
私は、失礼ながら県教研で余った報告書を10部ほど持参し「様子を見て出せるようだったら審議してもらおう」という気持ちで参加した。

1、山鹿温泉

九州縦貫自動車道を2時間ほど走り、熊本市をさらに北上し、植木インターを下りてさらに20分くらい車を走らせると山鹿温泉に到着した。
なるほど湯煙は温泉街を思わせるが、霧島や指宿などと違うのは、「江戸時代さながらの町並み」であった。
「城下町と宿場町と温泉町が一体となった風情豊かな町」そんな感じがした。

2、開会集会

開会集会は八千代座という「芝居小屋」で行われた。
2月には坂東玉三郎の公演も予定されているというきちんとした昔ながらの造りであった。
2人の子どもをホテルの保育所に預けて会場に到着した時には開会時刻はとうに過ぎており、中からはテレビカメラが運び出されたところであった。
あとから考えてみると、ちょうど「いじめ自殺者の親族による訴え」を撮影した後だったようである。
中に入り、桟敷席に場所を見つけた時にはすでに講演が始まっていた。

講師は今泉博さん。
東京で長く小学校教師をされ、現在は北海道教育大学で教鞭をとっておられるとのことであった。

前半は現在の教育をめぐる情勢についての話で私にとっては「総花的」で退屈であったが、途中から会場を相手に「模擬授業」を開始した頃から俄然盛り上がりを見せた。
壇上の黒板と話術を生かして、会場の声を巧みに使った授業は、「子どもに推理させ、予想をさせる」というものであったが、明らかに「半分は退職者」という会場を大いに沸かせていた。
「さすが小学教師」と思った。

3、分科会

昼食は、市街地のファーストフード風「天ぷら屋」で食べたが、ヴォリュームたっぷりの天ぷらがとてもおいしかった。
分科会は、「歴史」に参加した。
参加者は、最終的に9名であったが、地元の熊本大学のナカタ研究室関係者という方が3名ほどいた。

報告の最初は佐賀の田中さんの「近世の授業プラン」であった。
加藤公明さんの「討論授業」と網野善彦さんの学説を最大限に取り入れたビジュアル的様子に富むなかなか楽しいものであった。

プランではあるが、長年実践を積み重ねてきたものと思われ、子どもの思考も大切に扱われておりすぐに使える「お持ち帰り」教材となった。
討論では、私の方から「史料の扱い方」に関する質問をした他、年輩の方から「経済構造をふまえたものとなっていない」という指摘もなされた。

次は福岡の斎藤さんの「遠賀川の堀川を調べる」という私の好きな「地域教材の掘り起こし」の実践であった。
「江戸時代の大型公共事業が地域の人に何をもたらしたか?」というテーマであったが、ねらいも資料もきちんとしており、フィールドワークもたっぷり保障されたものであった。

翌日には「炭坑調べ」の資料提供もあり、報告者の「意欲」と「実践の積み重ね」が強く印象に残った。

最後は、熊本の宮丸さんの「荒尾の空襲」をあつかった授業。
学校の職員室の隅っこに残されていた2枚の板きれ(機銃掃射の跡が残されている)をきっかけにした戦争学習であった。
昨年の原鶴(佐賀)集会で報告をし、それを歴教協全国大会でさらに練り直し、この集会で「総括」をしたという内容であったが、3つの報告に同席した斎藤さんが「いやあ、良くなった」と褒めていた。
もちろん、内容も報告も双方共にという意味である。

翌日は、参加者が4人減った。
最初に私から「ハンセン病問題の授業」の報告を行った。
ここ5年間で積み重ねた内容をまとめたものであり、概ね好評であったように思うが、これまで新福さんや上猶さんらがこの分科会で報告してきたことが私の報告に大きなプラス要因として働いていた。
「判決文授業」のパイオニア的役割を果たしていた2人に敬意を表したい。

後半は、宮崎の黒木さんという退職された方が「教科書比較 東京書籍と日本書籍新社」という教科書研究報告をされた。
途中、同じく退職者で熊本の岡崎さんがすべての教科書を項目毎にチェックした一覧表を配布されたが、お二人の現在の教科書の現状へに対する危惧と憂慮の念を強く感じた。

4、最後に

全体会、分科会を通じて感じたのは参加者の「高齢化」であった。
特に全体会では参加者が一望できる席にいただけにそれを強く感じた。
しかし、その「高齢者」の元気なこと元気なこと。
分科会でも発言の半分以上は退職者の方であったし、交流会の席上でも意気軒昂な笑い声があちこちで聞こえていた。
私は、そこに「歴史の重み」というものを感じた。

そして、それを受け継ぐ私たちの姿勢について斎藤さんが次のように述べていた。
「まあ、嘆いていてもしようがなかけんねえ。楽しく自信を持ってやらんと。つながる人は意外にいるけんねえ。」
斎藤さんも決して若くはない。
岡崎さんが私を見て「鹿児島は若い人がいていいねえ」と言ったが、私も42歳で常識的には「若者」ではない。
ただ、分科会には20代が3人参加していたのも事実である。
あまり多くを語る人達ではなかったが、きっと何をつかんで帰ったに違いない。
以前、指宿で私や妻がそうであったように・・・ 

まあ覚悟はしていたが、来年の集会では分科会の世話人となった。
レポートのタイトル名まで求められた。
会場は大分で、講演はあの斎藤貴男さんである。
この文章を読んでいるみなさん、大分集会にぜひ参加して下さい。(終わり)

(『かごしま歴教協通信』 No.35 2007年1月)

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