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会員による実践紹介 > 荘園制をどう教えるか

荘園制をどう教えるか

小浜健児(城西中)

はじめに

「荘園制」については、できることなら、授業で扱いたくない。
なぜなら、

(1)用語、仕組みが複雑で、難しい。
(2)時代によって、「荘園制」の性格、「荘園」の様子が異なり、何時代の典型な用語になりにくい。
(3)同じ時代でも、地域によって大きく異なり、これまた、典型がみつけにくい。

でも、「荘園制」や「荘園」は、授業しだいでは、民衆の生き生きした場面をつかむことができる。その域には到達できないが、「荘園制」の確立について考察していく。

生徒の「荘園」のイメージ

1:【開墾のすすめ】
政府は開墾を奨励しようと、743年に墾田永年私財法を出した土地(墾田)であれば、いつまでも私有してよいことにしました。
そこで、貴族・寺院や郡司などは、周りの農民を使って、さかんに開墾を行い、私有地を広げました。

教科書のこの記述を読んで、生徒は、ここに、「荘園」の始まりをみる。

しかし、この初期荘園は、ほとんどが、短期間で消滅する。原因は農民の逃亡。だから、初期荘園にポイントをおくより、「農民の逃亡」にポイントをおいたほうがいいと思う。

授業では、「743年:光と影」をテーマに行う。

光:大仏造営の詔〜「天下の富をたもつ者は朕であり、天下の勢いをたもつ者も朕である。この富と勢いをもって、この尊像を造る」

影:農民の逃亡により、口分田が不足し、墾田永年私財法を出さざるをえない。

2:【摂関政治と国司】
藤原氏は、朝廷の高い地位をほとんど独占し、国司からはたくさんの贈り物を贈られ、多くの荘園を持つようになりました。地方の政治はほとんど国司にまかされたので、自分の収入を増やすことだけにはげんだり、任地には代理を送って収入だけ得たりする国司が多くなり、地方の政治は乱れていきました。

この記述から、「摂関政治と荘園」を結びつけ、摂関政治の財源は荘園とみる。

しかし、

1 藤原頼通は、延久の荘園整理(1069年)の際、「公認された文書がない荘園は、公領にすべきである」と述べた。これらから、荘園からの収入には重きをおいていない。
2 藤原氏の収入をみると、職田・位田・職封・位封からの収入で、年間約4億円。あくまでも、これらの収入が基本だ。
3 位の低い貴族は、藤原氏に国司に任命してもらうためにわいろをおくる。 
4 摂関期の荘園は、初期荘園より複雑。摂関政治の収入源を2・3からみることにおさえるべきだ。

「荘園制の確立」

3:【荘園と武士】
武士の成長を支えたのは、荘園でした。武士は、館を築いて土地の開発を進め、領地を寄進して中央の貴族や寺社の荘園とし、自分は荘官となって勢力を広げました。これに対抗して国司は、荘園以外の土地を公領として経営するようになり、やがて公領でも、荘園と同様に武士が成長するようになりました。
院政が始まると、上皇は多くの権利をあたえて荘園を保護したので、荘園は上皇のもとに集まりました。また、荘園を寄進された寺社も大きな勢力を築き、武装する僧も多くあらわれました。

この記述だけでは、荘園とは何か、イメージとしてわかない。そこで、授業では、県中社研編「かごしま郷土資料集」を活用し、具体的な出来事をみていく。

<史料:日置庄・伊作庄>
 右の領地の田畠などは、今まで国司と近衛家の両方へ年貢を納めてきた。ところが、治安が乱れてきて戦いが続いたので、農民たちは逃亡するものが出てきて、人数が減ってしまった。このような状態で、どうしても両方へ年貢を納めることができなくなった。そういうわけで、国司の要求する多額の年貢は、どうしても納められないので、このたび、領地三カ所すべてを保護していただくために、近衛家に寄進した。
今後は、重澄が決められた年貢を近衛家へ納める。ただし、領地を管理する権利は、重澄の子孫が受けついでいく。
あとあとの証拠とするために、寄進の書きつけは以上のとおりである。
文治三(1187)年三月 日 平重澄判


<授業の展開>

1 いつ(何年、何世紀)の出来事か。
2 だれが書いた文書か。
3 どのようなことを決めたか。
 (1)それまではどうだったか。
 (2)今からどうするか。
4 荘園領主=土地をもっている人、在地領主=土地を管理する人、農民=土地で働いている人。このように、一つの土地に、何人かの権利をもつ仕組みを「荘園制」という。

<生徒の疑問〜私の疑問でもある>

1 平重澄は、なぜ、「寄進」をしたのか、損するのではないか。
   〜「寄進」の意味や目的が理解しがたい〜
2 京都に住んでいる近衛家が、鹿児島の荘園を保護できるのか。
   〜「寄進」と「保護」の関係が理解しがたい〜
3 領地を管理する権利とは?

<まとめ>

荘園制については、永原慶二『荘園』(評論社)、
 加藤文三『歴史の歩み』、
 『歴史地理教育』(329号〜「特集:荘園制の新しい見方・教え方」、395号〜「教室の常識を問う日本史50問50答」)がある。
永原慶二『荘園』(評論社)p86は、
 ・在地領主が、その所領を確保するために、中央貴族に対して名目的に寄進という行為をとり、年貢の一部をそれに差出した」というのは、誤りである。 
 ・在地領主は「私領」しかもっておらず、それだがらこそ収公の危機があった。    
 ・荘園領主は国の取り分であった官物(年貢)、雑役を自己の取り分として引きついだ。
 ・寄進主である在地領主は、「寄進」によって自分のフトコロを痛めたわけではない。
と解説する。これを消化不良のまま、授業をしている。
中学校では、必ず、ここは扱う。皆さんは、どう授業しているのだろう。教えを請いたい。

おわりに

歴史に限らず、社会科は、具体的出来事で学ぶ方がいい。私の授業のスタイルは「ラジオ型」。できるなら、高画質の「テレビ型」で行いたい。

荘園制の舞台は中世(鎌倉・室町)。授業方法によれば、荘園の中で生きる民衆の姿を生き生きと学ぶことができる。
1 荘園をめぐる争い<1275年:阿テ河荘、1324年:日置北郷>
2 座を中心にした産業の発達<京都:大山崎油座〜石清水八幡宮>
 用語の羅列でなく、油の原料(ゴマ)の産地〜輸送(問丸、馬借、津銭・関所銭など)〜生産・販売(市)などを関連づけて教えたい。
3 村の自治<正長の土一揆、山城の国一揆> 
概念的にならずに、具体的に授業を展開するかは、高画質の「テレビ型」の史料による。民衆の生き様を学ぶのが、歴史学習だと思う。
授業紹介というより、「教えて!荘園制」が強い。

(『かごしま歴教協通信』 N0.34 2006年9月)

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